イベント報告

  • 2016.12.03
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中国ブロック研修会(日程:2016.11.28-30) 文責:神谷宗幣

今回は龍馬プロジェクト中国ブロックの研修で、隠岐の島の隠岐の島町と海士町を視察しました。

【平成28年11月28日(月)一日目】

まず、初日は隠岐の島町。

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ここは竹島を持つ町なので、竹島問題中心に調査してきました。

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最初の訪問地は「久見竹島歴史館」。竹島に関する資料の収集を目的に今年の5月にオープンしたばかりの施設です。ここでは、隠岐の島町総務課竹島対策室の忌部さんが竹島問題についてお話をしてくださいました。

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竹島問題の起源は、昭和27年1月に李承晩が、李承晩ラインをひいて竹島を韓国領だといい始めたことですが、ラインがひかれたのちも昭和29年頃までは、島民が竹島で漁をしていた記録があります。今、隠岐の島町で取り組んでいるのは、過去の竹島での漁の記録などの収集保存だとのこと。

領有権を司法の場などで争うときは、そうした過去の領有の実態が大切なのですが、実効支配をされてしまっているので、過去の領有や漁の実態を知る方がどんどん亡くなっていっているのが現状なのです。

聞き取りの結果いろいろなことが分かってきています。

当時、隠岐の島から竹島までは動力船で12時間よって一回行ったら2~3週間滞在してアワビやサザエの採取やアシカの捕獲などをやっていました。
とったアシカは、動物園や水族館などにも売っていたそうです。

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当時の漁獲高の資料もありますし、島の様子のスケッチ、朝日新聞が竹島での漁の様子を取材してまとめた新聞の記事なども町で保存されていました。

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施設ができてから、韓国政府の関係者が調査に来たそうですが、「まずいな~」という感じで帰っていったそうです。
韓国側にはおそらくそんな資料は残っていないのでしょう。

今後の町としての取り組みは
・国に領土権の確立や漁業の安定操業の確保を訴えていくこと
・町の内外に竹島にかかわる情報の教育活動を推進していくこと
・竹島にかかわる資料の収集とアーカイブの作成
を考えられています。

町からは国に何度も要望書を出しているとのことですが、国から正式な回答は一回もなかったといいますから、今後の動向は国民の意識で変えていく必要があると感じました。

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歴史館の後は、郷土資料館とその隣にある水若酢神社を訪問。
水若酢神社は延喜式にも記録される由緒ある神社で、古くから隠岐の島が日本にとって重要な場所であったことの証でもあると感じました。

たくさんの神社を訪問し、どんな神社があるかによってその地域の特性などがわかるようになってきました。

夕方は、先月まで町長をされていた松田和久氏と漁協の代表理事の濱田利長氏にお越しいただき、竹島問題についてヒアリングしました。

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まず、濱田氏からは漁業の現状をお聞きしましたが、韓国の漁師は、日韓で定める竹島周辺の暫定水域(日韓が共同で漁ができる場所)で、無茶な漁をして困るとのことでした。

例えば、共有地なのに定置の漁具を設置し、日本側が漁に入っても底引き網などができず、仮にそれをやって韓国側の漁具が破損したりすれば、損害賠償をしないといけないとか、小さい魚も乱獲するので海洋資源がなくなっていっているとのこと。

さらに、暫定水域で魚が取れないと韓国側の漁師は日本の排他的経済水域(EEZ)にまで入ってきて漁をし、日本の巡視船などが行くと暫定水域に逃げ込んでしまうといった様子だとのこと。
国家間で取り決めがあるのですが、韓国側の漁船の監督は韓国政府に任されているため、日本からは強く取り締まりがしにくいとのことでした。

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また松田氏からは、驚きの話を聞きました。
私は、隠岐の島の人々は、李承晩ラインがひかれてから漁業区域を制限され、時には韓国側に拿捕されて亡くなる方もいて、大変な思いをされてきたのだろうと推察していまいた。

しかし、松田氏曰く、島民が韓国側に捕まったことはなく、鳥取や九州の漁師が連れていかれたとのこと。なぜなら、漁といっても様々な手法があり、暫定水域あたりで大規模な漁をするのは九州などの漁師だそうです。

そして、それより驚いたのは、今70歳の松田氏が若いころは、隠岐の島の人々は誰も竹島の問題など知らなかったということです。
日韓で今の排他的経済水域が決められたのは、昭和53年だとのことですが、その当時でもまだ竹島問題の関心は薄かったとのこと。
なぜなら、先ほども書いたように、隠岐の島の人々にとってのメインの漁場は竹島近海ではなかったからなんです。

ではいつ頃からどうして隠岐の島で関心が高まったのかというと、平成に入ってからできっかけは離島振興の問題だったといいます。

松田氏は合併前の旧西郷町の町長時代に、離島振興の要望を国に上げる活動をしておられ、実際に平成15年11月15日には隠岐の島に離島振興を進めたい方々を集め1200名規模の集会も開いておられます。

そしてこの運動の中で、隠岐の島の日本の中での重要性を訴えるために「竹島問題」を強く訴えるようにした、というのが実際のところであったようです。

この頃から隠岐の島でも竹島問題がだいぶメジャーになり、その流れで平成17年3月に島根県議会で、2月22日を竹島の日と定めたわけです。

そして竹島問題を全国区の課題に広めたのが、2012年8月10日の李明博韓国大統領の竹島上陸であったといいます。
それまで、ローカルなメディアしか取り上げなかった竹島の問題を、全国のメディアが取り上げるようになり、竹島問題が多くの国民に知ってもらえるようになってよかったと言っておられました。

イメージと実際は違うものです。
現地に行ってみて初めてわかることがあります。

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松田氏、濱田氏ともに、竹島の領土問題は将来的には決着させたいが、戦争でもしないとすぐには解決しない問題だと捉えておられました。

今一番政府に求めるのは、暫定水域での漁業権の保護で、韓国政府と新たなルール設定をしてほしいともおっしゃってました。

私や同席した仲間は、歴史に学び、慰安婦の問題を見てもわかるが、韓国とは約束しても守られる保証なんてないから、友好や新しいルール設定をしてもあまり意味がない。
韓国は強い相手になびくお国柄なので、スワップなどで相手が泣きつくポイントを見つけて、圧力をかけて言うことを聞かさないとダメだと忠告だけさせてもらいました。

また、島根県民としては、隣の鳥取県も一緒に声をあげて欲しいと口をそろえて言っておられました。
どうもしかし、韓国と鳥取の政治家との間で、裏取引があったような話もあり、それがなかなか実現しないのではないかという話も出ていました。

対馬でもそうでしたが、本音は土地問題や領土問題よりも、離島の方々は日々の経済を回すことが第一課題で、対馬であれば韓国人の観光客にお金を落としてもらうことが一番の狙いになり、隠岐の島においては、領有権よりも漁場の確保や経済振興が大切なのだろうという印象を持ちました。

離島の経済は厳しいですからね。そこに住んでいない私たちが、「お金より、土地や領土だろう!」と叫んでも、それは我々のエゴであり、まず島の皆さんの暮らしを支えることを考えねば、領土を守ろうという意識にも慣れない現実があるのでしょう。

多くのことを教えてもらいました。

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そして夜は隠岐青年会議所の皆さんとの意見交流会。
皆さん初対面でしたが、同世代どおしすぐに打ち解けて、島の実情について詳しく教えてくださいました。

私なりにこれまで学んできた地域振興策や貨幣経済の課題などをお話したら、すごく喜んでくださり、その場で龍馬プロジェクトに入ってくださる方も現れました。

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さらに、2次会3次会と続き、ユニークな隠岐の夜を堪能させていただきました。

1日の感想として、やはり離島での生活は大変なので、我々よそ者はあまりイデオロギーばかり主張せず、先に離島での生活をいかにサポートしてあげれるかを、できることからやっていくべきと再認識しました。

隠岐の島町の皆さんには、たくさんのお時間と情報を頂いたことに心から感謝しております。ありがとうございました。

【平成28年11月29日(火)二日目】

研修2日目は、隠岐の海士町を視察でした。

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午前中は【隠岐島前教育魅力化プロジェクト】の取り組みをレクチャーいただきました。

海士町も他の地域と同じように戦後人口が3分の1ほどに減って、現在の人口は2400名程度に減っています。

その中で子供の数も減り、地元の高校は学力や魅力が低下、その結果地元の子供の4割ほどしか地元の高校に進学しなくなってしまいます。

平成20年ごろには年間の高校入学者が20名を切ってしまいそうな状態になり、高校の統廃合も考えられていたといいます。
子供を島外の高校に行かせないといけなくなると、保護者の負担は年間100万を超えます。
そんなことなら一緒のこと本土へ移住しようということになりますます島の過疎化が進むという悪循環がありました。

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つまり地域の教育力の低下が、そのまま地域の衰退につながっていることを海士町の皆さんは気が付いたわけです。

そこで始まったのが【隠岐島前教育魅力化プロジェクト】。

岩本悠さんら外部人材の力を取り込んでの教育改革です。
従来の知識教育中心の教育を変えて、自身の目標探究や、地域に出て地域を学ぶという日本ではユニークな教育をスタートし、【島留学】制度で島外の学生を受け入れることで、地元の学生にも多くの刺激を与えられる学校づくりに変えていきました。

また、刺激は【島留学】だけでなく、ICTを活用した県外の学生とのWEB上の共同の学びや、海外の大学を訪問する修学旅行に海外各国との情報交換など様々な取り組みによりもたらされます。

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こうした努力の結果、学生数は倍増。地域の子供の地元高校進学は7割に回復し、島外からの入学希望は2倍ほどになったといいます。

さらに地域課題などに向き合った学生たちは、大学進学で島外に出ても将来的には島に戻ってきたいというようになったといいます。

私も教育の見直しを訴えて10年政治をやってきましたが、やはり教育からしか地域は変わらないと思います。

明治以降の均一化された、知識と技術を重視した教育はもう今の日本にはあってないのです。
偏差値教育をしても今の日本に必要な人材は育たない。

日本の歴史や先人の思い、我が国の強みを知った上で、世界の中で国と日本人がどんな役割を果たすかを分析し、ビジョンをもった人材をつくって、国や地域の課題を考えさせないと、東大に入れて大企業社員や官僚を増産してもダメなことをはやく認めて方向転換すべきです。

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レクチャーを頂いた方も、
「グローバル化する世界の中では日本は遅れているといわれ、島根県は日本の中で遅れているといわれ、海士などの離島はその島根の中で遅れていると考えられているが、見方を変えれば新しい地域づくりのタグボート的な役割を果たせるかも」とおっしゃっていました。

私もまったく同感で、地方の小さなコミュニティーに大きな可能性があると考えて、全国の過疎地を回ったりしています。

2400人の町の教育改革に、今後も大いに期待します。

【参考】
危機感の共有が生んだ攻めの一手――海士町・島前高校魅力化プロジェクトが見据えるまちづくり(前編)

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2日目の午後は、会場を移して、海士町が財政破綻寸前の状態から如何に持ちこたえてきたかというお話を聞かせていただきました。
戦後、海士町は、人口が2400人にへったということでしたが、当然財政もガタガタになり、
かつての海士町は「財政再建団体」一歩手前の状況まで来ていました。

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そこで、近隣市との合併話が進んでいましたが、仮に隠岐諸島すべてで合併しても人口は2万人程度。一つの島が一つの自治体となっている状況を壊せば、地域の疲弊はさらに進むことも予測されたため、海士町の人々は合併を避け、なんとか自分たちで生きていく道を探すことにしたそうです。

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自分たちの島は自ら守り、自民たちの島の未来は自ら築く!
を合言葉に、島の守りと攻めを考えてこられたそうです。

町長が変わり報酬カットしたことをきっかけに、役場の幹部が自分たちで自主的に給与カットをしたり、365日勤務体制をシフトで組んで、50名ほどの職員が民間の職員のように、利益を上げられる仕事をやり始めたとのこと。

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給与カットにおいては、自治労の本部の方からとんでもないことをするなと、横槍を入れられたそうですが、それを乗り越えて実施。

さらにすごいのは、行政が主体となって、食品の商品開発やブランド牛の生産、販売を行ってきたという事実です。

島外からの人材を連れてきて、彼らがビジネスしやすいインフラに投資をして、起業させているというのですから、信じられないことです。
税金で特定の民間人を支援しているといわれたら、絶対にアウトになる事例ですが、そこまでしないと人口2400人の村に産業など生まれないという危機感でやったそうです。

こうした取り組みで、報酬カットでういた予算は子育て支援にまわすなどしたいった結果、都市部からの人口流入が増え、なんと人口の減少がストップしたのです。
税収も少しは上向きになり、町に活気が出てきたといいます。

今では地方再生のモデル事例のようになっていて、成功事例といわれることもあるそうですが、それでも実体はかつかつの状態。
気を抜けばすぐに逆戻りするとの事で、危機感を持ってやっておられました。

確かに、年間予算は50億円なのに、税収は2億円程度しかないとの事でしたから、3割自治どころか5%自治の状態です。

先日訪問した石川県の珠洲市よりも厳しい状態なんですね。

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説明してくださる職員の方が、あまりにも熱を込めて訴えられるので、私も同行した仲間も少し泣きそうになったほどでした。

都会にいたら分からない地方の現実です。
私は6年ほど市議をやって、落選して4年間も活動をとめず、全国の自治体を回り200ほどの自治体の取り組みを視察してきましたが、現状は年々厳しくなっているように思います。この10年で高齢化も進みました。

百田尚樹さんがカエルの楽園という本で「国が緩やかに老いていっている」と書かれていたと記憶していますが、
日本の状況はまさにそれです。

先行きは分かっているのに、まだ皆さんがなんとかなるだろうと、他人事にしているように感じられてなりません。

私たちが龍馬プロジェクトで海外に視察に行くのは、海外の日本と比べれば小さな国々の生き残りをかけた必死の努力に学びたい、その事実を日本人に伝えたいと思ってのことです。
しかし、日本でも今回の海士町のように、危機感をもって知恵を絞っているところがあると知って、多くの皆さんに知ってほしいと思いました。

【平成28年11月30日(水)三日目】

研修最終日は、本土に戻り松江に移動して、小泉八雲記念館を訪問しました。

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私は20年ほど前に一度訪問していたのですが、今年リニューアルされてすっかり別の施設になっていました。

記念館では、小泉八雲の人生の軌跡や彼の思想が良くわかる展示がなされていました。

記念館を見た後は、小泉八雲のひ孫で、記念館の館長をされている小泉凡氏から、小泉八雲のヒストリーや秘話を聞くことができました。

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まず小泉八雲がどんな考えを持っていたかについてですが、

例えば20世紀初めに行った「極東の将来」という講演においては、

人間と自然との共生や物欲に走らない価値観の構築を訴え、

いずれアジアは武力戦争から経済戦争に移行し、日本は中国にやられるだろう、という目算を語っていたそうです。

また1904年(明治37年)の教育にかかわる講演では、

「日本の教育は知識詰め込み型になってしまっているので、もっと想像力を育む教育をするべきだ、また日本の親は、学校の先生に甘え過ぎている、もっと家庭教育をしっかりやるべきだ」

と100年後でもそのまま当てはまる指摘をしていたそうです。

さらに、彼は30冊の著書を残していますが、その最後の作品「JAPAN」において、
「祖先信仰が日本の精神の根幹で
それが伊勢神宮や皇室への崇敬につながっているのだろう」
と分析していたそうです。

そして私が一番驚いたのは、以下の点です。

皆さんは、「終戦のエンペラー」という映画をご覧になりましたか。

その映画の主人公はボナー・フェラーズ。GHQでマッカーサーの部下として働いていた人物で、連合国による戦後昭和天皇への処罰を回避させた人物として取り上げられています。

なんとこのフェラーズは学生時代に、小泉八雲の作品に感動して彼の作品を全部読んでいたそうです。

そして1930年には日本に来て小泉家を訪問し、八雲の孫と意気投合し、以来交流を深めていったそうです。

なんと小泉凡氏の名前は、ボナーからとったというのです。これは驚きでした。

そして、フェラーズ1936年にマッカーサーと出会い、軍事秘書官となって、彼について1945年に日本にやってきました。

そこで最初にしたことが小泉八雲のお墓参りだったというのですから、その傾倒ぶりがうかがえます。

知日派だったフェラーズは確かに、昭和天皇を守ったのかもしれませんが、

彼が書いた日本分析のレポートはGHQメンバー必読書とされ、日本占領に大いに役立ったそうです。

フェラーズはこう書いています、

「日本人の心理について書かれた最高の文献は、おそらくラフカディオハーンの著書である」と。

GHQの占領政策は狡猾で、神道や武道、歴史の破壊は、いまだに日本人の背骨に傷を与え続けているのです。

なんとその政策を作るのに、日本を愛した小泉八雲の作品が役に立っているわけですから、皮肉なものです。

今後の研究テーマを一つ頂いた気がします。

話の後半は、小泉八雲をつながりとして、小泉凡氏らが行っている国際交流や文化事業についてご紹介を頂きました。

龍馬プロジェクト四国ブロック研修の坂本龍馬の姉の子孫の方のお話もそうでしたが、

偉人の子孫の方々のお話は、本当にいろいろな事実が学べます。

貴重な機会を頂き、ありがとうございました。

以上、2泊3日の龍馬プロジェクトの研修報告です。

文責:神谷宗幣(龍馬プロジェクト 会長)

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